内股日記

遠い北国での生活つれづれ

赤線地帯と東電OL

赤線地帯 という50年代の映画を鑑賞。若尾文子の顔、好きだなあ。

舞台は、戦後赤線の或る売春宿。こういうのを所謂、群像劇というのだろうか。そこで働く売春婦たちは、それぞれの事情を抱えている。淡々と描かれているが、内容としては重く、鑑賞後、多少おちこんだ。

ある女は夫が戦死して、息子を立派に育てる為にそこで働いているのだが、上京して働き始めた思春期の息子に、母親が売春婦だなんて恥ずかしい、もう連絡しないでくれ、と言われて発狂し、

或る女は病気の旦那と赤子を支える為に其処で働き、

若尾文子えんずるヤスミが一番、策士であった。その美貌で男から金を巻き上げ、その男が破産したら、男の営んでいた布団屋を買い、売春から足を洗って女経営者になる。

ほかにも色んな事情を抱えて皆んなそこで働いているのだが、映画としてとても良く出来ていたと思う。

 

今日、売春する人と、この頃の売春婦とでは、きっかけや成り行きが違うなあ、と思った。

東電OLの事件を題材にした映画、小説は多くあるが、同じ売春婦でも、抱えている問題が違うなあ、と。

こんにち売春する人の心理は、赤線の売春婦のように食べていく為に必要に迫られて、というよりも、どちらかというと東電OLの心理に近い気がする(ホストに狂ったり浪費癖が治らず、といった、また別の事情を抱えた人も少なくないが)。

食べ物が足りたら、今度は自分の女としての価値をたしかめたい、という欲を満たす為に売春する人も存在するのだろうということは、女として想像しやすい。

東電OLは、その典型であったのだろう、と考えてみる。昼間は男なみにエリートとして働き、夜は自分の女性としての価値をたしかめる為に売春する。女の悲しい性である。
あの事件が起こった頃は、ちょうど女性の社会進出の過渡期で、仕事の出来る女性の社会の中でのアイデンティティが揺らぎやすかったのだろう、と思う。

 

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この人ぐらい、図太く可愛く、自由に生きたいものである。このレコードは、わたしの聖子コレクションのほんの一部である。ぼんやりのんびりと暮らして居ても、やはり異国での生活はわたしには精神的に満ちたりきれないところがある。さあ今日も始まった、と顔を洗う為にヘアバンドに手を伸ばすとき、ロックンルージュの聖子ちゃんの微妙な表情に目をやる。面白いことに、そこでわたしの心に浮かぶものは毎朝ちがうのである。