内股日記

遠い北国での生活つれづれ

松田聖子的生き方

神田沙也加が自ら命を絶った。

 

フェミニズム界隈の人たちだけに留まらず、幅広い世代の一般の女性たちが、生き方としての松田聖子に憧れ、ロールモデルとしてきた(完全に真似することは難しいとしても)と思う。

勿論、家族の内情は我々一般人には窺い知れない。

聖子には聖子の言い分があるはずであるし、神田正輝がどんな夫であり父親であったか、本当のところは当人たちしか知り得ない。

 

敢えて、敢えてである。

表に出ている事柄だけを参考に判断するとすれば、今回の件で、「松田聖子的生き方」というものに対する一つの結論が出た感がある。

実子が自殺する、これ以上辛いことがあるだろうか。

 

私も松田聖子に憧れてきた一人である。

これからも彼女の歌を聴くだろうし、経済的に自立して(その辺の男性の経済力なんてお話にならないほど)、自由に恋をし、そしていつも前向きで人の悪口を絶対に言わない、そんな生き方、在り方に憧れを抱き続けると思う。

 

ただ、今年生まれた娘が一緒に居てほしいと言うときには一緒に居てあげられる母親であろうと、改めて今回の件で決意を固くした。

 

それにしても、松田聖子と自死遺族、実子の自殺、それらの事柄のイメージが上手く繋がらず、違和感を感じる。

明るさ、ポジティブさ、強い陽の気をもつ松田聖子と、この世で最も陰鬱な事柄の一つである「実子の自殺によって逆縁となること」がイメージとしてどうしても相容れず、訃報を知った昨日から、奇妙な悪夢をみているような感覚がある。

 

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名曲"with you"目当てで出産前に購入したアルバム🎁

明菜様

今更ながら中森明菜にハマる。

16歳デビュー当時の明菜ちゃん、なんだか吾妻ひでおの描く美少女を彷彿とさせるプクプク感。

それが5年後21歳には、低音で難破船を歌いこなす眩しいほどの美女に!

16歳から21歳というと一般的に少女から大人へ大変身を遂げる年頃だけれど、明菜ちゃんの場合はまさに初々しい蛹から金の鱗粉を撒き散らす儚げな蝶に脱皮したのだなあ、という印象。

 

リアルタイムで観ていた人はどう感じていたのでしょう?

こうやって30余年後にダイジェスト版的に観てみると、とても興味深く、圧倒される。

恋する女は夢見たがりの

ベルが鳴る あなたの部屋で 8つまで数えて切った 薬師丸ひろ子

 

7回目のベルで受話器をとったきみ 宇多田ヒカル

 

恋する女の子というものは、好きな人に電話をかけるとき、とりあえず8回まで鳴らしてみるものなのでしょうか。高鳴る鼓動、不安、ときめき。

その心情をリアルに想像してみようとしても、なんせ人妻歴2年なので、どうも上手くいかない。

 

受話器を耳に眠り込んでた 少女へと戻りたい

 

うんうん、ピンクハウスの総レースロングスカートを履いてね!

 

「私おばさんになる練習したもん。だって心は女の子なのに周りからはオバさんに見えてるって耐えられないじゃん」

と言った年上の友人がいた。

 

いま髪を洗い 今『美的』を閉じて そして鏡を覗き込むとそこにあるのは、とうに少女の面影を失いつつある私の素顔・・・

アラサーあるある?

テルレスとトーマ

Kindle Unlimitedで見つけ、何気なく読み始めたムージル『寄宿生テルレスの混乱』。

寄宿舎の同性愛モノか、とワクワクしながら(萩尾望都の洗礼を受けて以来、大好物なのです)読んだものの、期待を遥かに裏切って暗くて重い作品だった。

 

読み進めながら、これは『トーマの心臓』に於けるサイフリート側の視点または言い分として解釈すると面白いかも知れない、と思った。

被害者であるバジーニとユーリのキャラクターはかなり違っているが、共に、男子しか居ないギムナジウムの寄宿舎で起きる、美少年を対象としたリンチ事件の話である。

『トーマの心臓』に於いては加害者側の動機について深くは描かれておらず、話自体がリンチ事件の後から始まり、つまり前提としてあった上で進み、後半でその詳細が明らかになる。少女漫画的な美しい絵でその凄惨さ、陰惨さがマイルドにされているが、ユーリの受けた暴行もなかなかのものである。何度も読み返す大好きな作品だが、暴行シーンは胸が痛くなるのであまりじっくり読まずにページをめくるほど・・

 

『テルレス』は読み返すことは無いような気がする。リンチが何故起こったのか、どのように終結したのか、で話が終わってしまうし、『トーマの心臓』に於けるトーマやエーリク、オスカー等にあたるような被害者を愛するキャラクターが一人も出てこない。少女漫画と比較して明るさや救いを求めても仕方がないのはわかっているが、主人公は思春期のリビドーに戸惑い、哲学し、結局はいじめを傍観していただけ(主人公の内面、心理的な葛藤が軸になった文学作品であるので、その哲学を経て主人公が事件をどう昇華するかが読みどころなのであろうが)。

 

イヤーな読後感で、似たような題材ならばトーマの方がいいや、と思ったのでした。私は少女漫画が好きなのである。

 

終始暗いこの作品を読みながら、全寮制の、しかも男子校というのは不自然な環境なのだろう、と思った。このような事件が起こり得るような。同性だけが集められ、隔離される、そんな状態は人間界でしかあり得ないだろう。男子の、特に思春期の性欲というものは凄まじいと聞く。不自然な条件下で、それがこのような屈折した形で発散されたとしても何ら不思議では無い。

 

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ボヘミアンラプソディ(2018)米

鑑賞者参加型(手拍子、歌ok)の公演もあるとのことで、これはやはり、映画館で観るべき作品だと思う(我々は通常版を観賞)。

 

2h15minという長編であったが、長さを全く感じさせないほど展開が速く(音楽のシーンも見どころであるし、クイーン結成から再結成後のライブまでが描かれていて、情報量が多い)、退屈することなく引き込まれたまま観終わった。

一言でこの映画を表現するなら、ミュージシャンであったフレディマーキュリーの、彼の音楽も楽しめるように作られた伝記的映画ということになろう。私は、少々ききかじった程度ではあるがクイーンのファンであるし、音楽を楽しむことが出来、また全く新しい情報であるフレディの私生活についても知ることができ(故人のスーパースターである彼を讃える趣向の作品だった為、細かい部分がどれだけ事実に忠実なのかは判らない)非常にたのしんで観賞した。

ただ、これが全く知らないバンドについての話であっても楽しめたかと考えると、少々疑問である。ハリウッド映画は技術を駆使して作られるエンタメであり、芸術性に乏しいのは常である。どうせなら、ロッキーホラーショウにような、完全な視聴者参加型の方向に振り切っても良かったのではとも思った。

 

ともあれ、クイーンのライトなファンである私は、この映画を多いに楽しんだ。危うく感涙しそうになった程である。

この映画でメアリーという女性の存在を知り、フレディがイメージに反して(飽くまで私の)とても繊細で、強いコンプレックスをもった人であったことも知った。この2人の関係性は素晴らしいものであり、我々の知るスーパースターの影に、メアリーが彼の精神的な支えとして大きく貢献していたのであろう。

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パンフレットもちゃっかり購入!

不安定で繊細な心の持ち主の方であるからこそ、フレディはこんなに魅力的なアーティストだったんだな、と思いました。

1999年の夏休み 感想

『トーマの心臓』を期待して観た所為か、少しがっかり。金子監督が触発されて撮った別の作品と考えた方がよいだろう。

『トーマの心臓』にあるような、文学的、哲学的、また心理学的な深みは感じられなかった。『トーマ•••』の構図を使って撮った、監督のメランコリック、ノスタルジックな空想物語の映像作品と言っていいだろう。しかし、これ程『トーマ•••』を意識させる作品(萩尾望都から許可を得たとのこと)でありながら、本家とくらべて内容としてかなり底の浅いものを撮るというのには、監督のクリエイターとしてのプライドを疑ってしまう。

美しい映像にマッチした音楽は良かった。少年愛の作品を少女たちに演じさせ、その脚にはガーターベルトがついているというのもフェティッシュで倒錯的で、良い。

 

もう一度書くが、これは『トーマの心臓』とは全く別の作品である。この作品では、トーマにあたるユウ、エーリクにあたるカオルは同一人物で、死んでもまた転生して鉄道に乗って学院に戻って来、他の少年たちと夏休みを繰り返すのである。一寸したホラー作品とも言えよう。

 

心を閉ざしていた和彦がカオルを愛するようになる(心中できるほどに!)迄の経緯が充分に描かれていないこと、また『トーマ•••』のエーリク同様マザーコンプレクスをもち、「僕は他の子より速く大人になって、それまで母さんの時間を止めておきたい」などと言っていたカオルが、和彦を心中に誘う時には「子どもの時間が一番すばらしいんだから、子どものままで一緒に死んで、また生まれてこよう」などと発言する矛盾点、なんだか腑に落ちないところが目立った。ナレーションの老男性の声、「1999年の夏休み、まだ昨日のことのように思い出せる」というような内容だが、ユウが転生を続ける限り夏休みは終わらなそうな気がするのだがどのように決着がついたのだろう、という疑問も残る。

 

ただ、作品のムードは好きなので、理解を深める為にももう一度みるつもりである。

 

その前に観たいのは、萩尾望都が観てインスピレーションを受け、『トーマの心臓』が産まれたという仏映画、「悲しみの天使」!

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最近、再読した『メッシュ』の中の一コマ。

構図として、メッシュがユーリ、ミロンがオスカー、またはエーリクにあたる。

この2人の関係性、凄く好きなだけに、意味深なラストシーンには暫く落ち込みました。

 

別れの曲と近親相姦

映画 さびしんぼう(1985) をまさに十余年ぶりに観ました。大号泣!

私はいつから打算的な恋愛しか出来なくなってしまったのだろう、と汚い大人になってしまった自分を悲しく思いました。いつかまた私に、純粋に人を恋ることの出来る日はくるのだろうか。

ショパンの別れの曲が全編に渡って効果的に使用されており、物語を盛り上げる。詩的な台詞と音楽とのハーモニーにのまれ、観る者を感涙させずにおかない作品であるが、かなり難解なストーリーであると思う。

 

大人になったヒロキの傍にユリコが居るシーンで終わるのだから、ハッピーエンドと言えよう。だが、これは紛れも無い悲恋物語である。それも、母と息子の。

別れの曲に日本語歌詞をつけたものをヒロイン役の富田靖子(めちゃくちゃ可愛い) が歌っている。

 

セルジュゲンスブールが、ダイレクトに”lemon incest” とタイトルをつけて同曲を実の娘と歌ったのは、前年の1984年であった。奇遇である。

近親相姦はタブーであるから、母親と息子、父親と娘の間に生まれる淡い恋心のようなものは、「別れの曲」に乗せて歌われる。息子、娘が成長すれば別れることを前提とした、理性的な、束の間の恋愛である。理性的なゲンスブール、と表現すると何だか可笑しい気もするが、近親相姦のイメージで遊んだアルバムで実の娘と歌っているだけでも、充分スキャンダラスである。

その名盤に含まれた一曲、”Charlotte forever”と同名の映画でも、二人は危うい親子関係を演じていたように思うのだが、何分、観たのが10年以上前なので、内容をはっきりと思い出せない。改めて観てみたいと思う。

同じ頃に鑑賞したっきりであったさびしんぼうの方は、解釈の難解さにも関わらず、数年たってもクライマックスシーンを思い浮かべるだけで涙腺が緩むほど私の心を掴んだので、軍牌はこちらに上げたい(大林作品とゲンスブールではスタイルがかなり異なるが)。

 

さて、こんなタイトルをつけると偉大なショパンに怒られるかも知れないが、同時代に日本とフランスで同じようなテーマの曲として別れの曲が使用され、30年以上経った今も多くのファンに愛される作品となっている事実に、単純に驚く限りである。f:id:anomalocariiis:20180722110125j:image